Giving It Away: How Red Hat Software Stumbled Across a New Economic Model and Helped Improve an Industry

ユーザにすべてを提供するビジネスモデル
レッドハット・ソフトウェア社は、いかにして新しいビジネスモデルを見出し、ソフトウェア業界の発展に寄与したか


Robert Young
ロバート・ヤング
Translation by Akira Kurahone




 オープンソースをビジネスとする企業の創業者である私が何を語るにしても、事実一辺倒の専門的な話では、読者にそっぽを向かれてしまう。オープンソースの有効性を信じかねている読者には、このエッセイを、表題に関する論文としてではなく、レッドハット・ソフトウェア社を発展させてきた要因や出来事を物語る、おもしろくてためになる話として、また、大いに好奇心をそそる話として読んでいただきたい。


レッドハット・ソフトウェア社が誕生したきっかけ
 Linux OSが登場して間もない頃(一九九三年)、我われは小さなソフトウェア販売会社を営み、ウォールナッツ・クリーク社やインフォマジック社などから出されていたUNIXアプリケーションや書籍や低価格CD−ROMを扱っていた。ところが、それらのベンダーが、従来のUNIX製品の他に、新しいタイプの製品−Linux CD−ROM−を提供するようになったので、我われもそれを取り扱いはじめた。そして、それが我が社のベストセラーになったのである。そこで、彼らに、Linuxなるものの出所を聞いてみると、彼らの答はきまって、「複数のプログラマがそれぞれの技術に応じて作り、ユーザがそれぞれの必要に応じて入手している」というものだった。
 ベルリンの壁崩壊から我われが何か学んだとすれば、それは、社会主義だけでは継続的な経済モデルは成り立たないということである。希望に満ちたスローガンはともかく、人間の経済活動は、優れたモデルによって努力を動機づけられない限り、自己増殖的な繁栄には向かわない。そして、一九九三年当時のLinuxにはそのような経済モデルが欠けているように思えた。そこで我われは、Linuxはとんでもないまぐれ当たりで売れていると判断した。もちろん、思いがけない幸運がもたらしたLinuxの売上で我われのささやかな事業が存続していることは確かだった。そして、我われ以外の様々な中小企業が潤っていることも確かだった。しかし、Linuxがまぐれ当たりであることに変わりはない。我われはそう結論づけていた。
 ところがである。一風変わったこのLinuxという製品は、まったく下火になる兆しがなかった。それどころか逆にどんどん進歩し続けていった。Linuxのユーザは増え続け、Linux CD−ROMに含まれて提供されるアプリケーションの質もどんどん向上していった。
 そんなわけで、我われはLinuxの開発についてもっと念入りに調べてみた。代表的な開発者に話を聞いた。大規模ユーザにもあたってみた。そして、調べれば調べるほど、風変わりだが実体は堅実な経済モデルが見えてきたのである。
 この経済モデルは効率的だった。もっと重要なことに、他のUNIX製品の売上と比較した場合の我が社のLinuxの売上は、このOSが真の将来性を持った真の技術であることを確信させるに十分なものだった。一九九四年秋のこの時点で、我われは、CompUSAなどの主なアウトレットストアに売り込めるLinux製品を探しはじめた。こうして、一九九五年一月、マーク・ユーイングと私は共同でレッドハット・ソフトウェア社を設立した。本章では、この風変わりな経済モデルにそって事業計画を進めるうえでの苦労話や失敗談について語るつもりである。風変わりとはいえ、この経済モデルは非凡なOSを生み出して顧客に利便性をもたらし、株主に利益をもたらしている。
 レッドハット・ソフトウェア社は、インターネット上でオープソースンソフトウェアの開発プロジェクトを推進している人たちの協力のもとに、四百本あまりのソフトウェアを入手し、それらをひとつのオペレーティングシステムにまとめあげている。我われは、完成した製品をテストしたり、Red Hat Linuxのユーザにサポートとサービスを提供したりしている。流れ作業的にいろいろしているレッドハット・ソフトウェア社は、まるで自動車の組立ラインみたいである。
 我われの事業計画は「独自の価値の提供」と表現できる。「独自の価値の提供」とは、自分でいろいろできる技術を持ったユーザに対して、自由に再配布できるソフトウェアの技術的な利点をソースコードとフリーライセンスという形で提供することを意味している。自分で自由にできるOSを提供することにより、自分の使うオペレーティングシステムを自分でコントロールしたいという彼らの要求に応えることを意味している。


フリーソフトウェアで稼ぐ方法
 商用ソフトウェアはバイナリ形式で売られている。そして、フリーソフトウェアで稼ぐ方法などと書くと、バイナリ形式のクローズドな製品を売って稼ぐのがいかにも簡単−少なくとも、そのほうが簡単−だと決めつけているようにも聞こえるが、その考えは間違っている。
 ソフトウェアベンチャーは、商用ソフトウェアを取り扱っていようと、フリーソフトウェアを取り扱っていようと、成功しているところは少ない。つい最近まで、すべてのソフトウェアベンチャーがバイナリ形式で提供される商用ソフトウェアだけを取り扱っていたことを考えると、IP(知的所有権)型のソフトウェアの開発とマーケティングで食べていくのは非常にむずかしい。しかし、一山当てれば大きい。十九世紀のゴールドラッシュの頃同様、ひとたび金鉱を掘り当てれば、ソフトウェア会社は莫大な儲けを稼ぎ出すことができる。だからこそ、多くの人びとは、「金鉱に出会う」チャンスをつかむために危険をおかすことをいとわないのである。
 フリーソフトウェアで簡単に稼げると思っている人はいない。事実、フリーソフトウェアで稼ぐのはむずかしい。しかし、商用ソフトウェアよりむずかしいわけでもない。現に、フリーソフトウェアで稼ぐには、商用ソフトウェアの場合とまったく同じことをすればいい。つまり、優れた製品を作り、技術と想像力を駆使してマーケティングを行ない、顧客層を開拓し、品質と顧客サービスを象徴するブランドネームを確立すればよいのである。
 技術と想像力を駆使して製品を市場に出すためには、とりわけ競争の激しい市場に出すためには、他社の追随を許さないソリューションを顧客に提供しなければならない。その目的のために、オープンソースの製品を売ることは競争力の面で有利にこそなれ不利にはならない。オープンソース方式の開発プロジェクトからは、動作が安定したソフトウェアが誕生している。仕様が柔軟でカスタマイズしやすいソフトウェアも誕生している。オープンソースという優良な製品がすでにあるのだから、それを販売する事業を起こす人は、顧客にオープンソースソフトウェアの恩恵をもたらしつつ利益を上げられる効率的な経済モデルを編み出せばいいのである。
 新しい経済モデルを見出すことは容易ではない。また、レッドハット・ソフトウェア社が見出したモデルがすべての企業や製品に当てはまるわけでもない。しかし、中には、多くのソフトウェアベンチャーとオープンソースソフトウェアベンチャーに当てはまりそうなアイデアも含まれている。
 多くの企業は、部分的にオープンソースなアプローチで市場に参入しようとしている。最も一般的なのは、自社のソフトウェアを非商用目的で使用するユーザとは配布自由な形態でライセンスを結び、商用目的のユーザに対してはライセンス料やロイヤルティを要求するやりかたである。しかし、オープンソースとは、ソースコードとフリーライセンスの両方を含むものである−にもかかわらず、部分的にオープンソースなアプローチを標榜する企業は、ソースコードだけでフリーライセンスは提供していない。
 念のために言っておくが、フリーソフトウェアの市場占有率はようやく拡大し始めたばかりである。したがって、今のところ利益を上げられずにいる企業があるとすれば、それは、そこの製品を受け入れるべき市場がまだ小さすぎるためかもしれない。一九九八年現在、ユーザの推計が一千万人にのぼるLinuxにしても、我われは自社製品の成長に満足しているが、世界中で二億三千万人のユーザがいまだにDOS/ウィンドウズを使っていることを忘れてはならない。


我われは、商品販売のビジネスに携わっている
 今のソフトウェア会社のほとんどは、ソフトウェアのソースコードに象徴される知的所有権を、自分たちのもっとも貴重な資産と主張している。そして、レッドハット・ソフトウェア社は、彼らが持っているような知的所有権を持っていない。だとすると、我われが携わっているのはソフトウェアビジネスではないと言える。我われは、自らが所有する知的所有権をライセンスしていないし、そうすることで顧客やスタッフや株主をサポートする経済モデルを実践していない。そこで、レッドハット・ソフトウェア社がどのようなビジネスに携わるかが問題となる。
 我われは、答になりそうな業界を探してみた。我われが見つけようとしたのは、製品を作るのに必要な材料を無料ないしほぼ自由に入手できるビジネスである。我われはまず弁護士という職業に着目した。法的主張は、商標登録できない。特許を取得したりすることもできない。ある弁護士が勝訴し、最高裁判例を勝ち取った場合、他の弁護士は、その判例を自由に利用できる。要するに、判例はパブリックドメインに属し、社会全体の所有物ということになる。
 次に我われは自動車業界に着目してみた。この業界では多くの納入業者から部品を調達することができる。我われはみな、ホンダやフォードを始めとする数百種類もの自動車から、自分の好みの車を自由に選択できる。我われにとって、自動車の選択肢は一つではない。そして、車は、業界内で調達可能な多くの部品で組み立てられている。自動車業界では、組立作業とサービス業務がビジネスの中核となっている。技術力があって時間とやる気のある人を除けば、自分専用の自動車を組み立てる人はほとんどいない。
 やがて我われは日用品の販売を主たるビジネスにしている業界に着目し、我われのビジネスの参考になるアイデアをいくつか見つけることができた。(ペリエ社やエヴィアン社の)ミネラルウォーター、(タイド社の)洗剤、(ハインツ社の)ケチャップというように、日用品販売の会社で大手のところはみな、強力なブランド造りをマーケティング戦略の柱にしている。そしてそれらのブランドは、彼らのビジネスの品質、堅実さ、および信頼性のシンボルになっている。そこで我われは、彼らのブランド管理の手法に見習うべきものがあると考えたのである。
 たとえば、ケチャップはトマトピューレを味つけしたものにすぎない。見た目も味もハインツ・ケチャップにそっくりのものは、著作権法を曲げるまでもなく自宅の台所で簡単に作れる。トマト、酢、塩、スパイスといった材料にしても、自由に販売されているものばかりだ。なのに我われは、ケチャップを店から買うだけで、自宅で作ろうとはしない。それはなぜなのだろうか? また、ハインツ社のケチャップが市場の80%を占めているのはなぜなのだろうか?
 我われがケチャップを手づくりしないのは、ハインツ社やハント社やデルモンテ社のケチャップを買うほうが安上がりだからである。店からケチャップを買うほうが自分で作るより便利だからである。とはいえ、便利さは、我われがケチャップを購入する理由のほんの一部にすぎない。我われが便利さだけでケチャップを購入するなら、ハインツ社もハント社もデルモンテ社も、同じマーケットシェアを得ているはずである。しかし、実際には、ハインツ社が80%のシェアを誇っている。
 ハインツ社がケチャップ市場の80%を占めているのは、同社の製品がよりおいしいからではない。それは、発展途上国に行って、トマトケチャップを知らない百人に、食べさせてみればすぐわかる。トマトケチャップを知らない人は、それが嫌いである。どの会社のケチャップも同じように嫌われている。
 ハインツ社がケチャップ市場の80%を占めているのは、同社のケチャップこそケチャップだと消費者に思い込ませることに成功したからである。いまや、ハインツ・ケチャップのブランドイメージはゆるぎないものとなっている。我われ消費者は、瓶から簡単に流れ出るケチャップよりも、(ハインツ社のテレビコマーシャルにあるような)ねっとりしていて瓶からなかなか出てこないケチャップのほうをおいしいと思っている。
 レッドハット・ソフトウェア社のビジネスチャンスは、ブランドネームを浸透させることにあった。利便性のあるものを提供すること、高品質なものを提供すること、そして、オペレーティングシステムのあるべき姿を顧客のイメージに焼きつけられれば、レッドハット・ソフトウェア社にもチャンスはある。高品質の製品とユーザサポートをたえず提供し続けることができれば、レッドハット・ソフトウェア社は、Linuxユーザが無条件に好むブランドになることができる。
 しかし、Linuxのユーザ層を拡大する必要性と、できるだけ多くの新規ユーザにレッドハット・ソフトウェア社の製品を使ってもらう必要性を同時に満たすにはどうすればよいのだろうか? 我われは、この問題の答を得るために、他の企業が活発に経済活動をしているおかげで同じ業界内の企業が潤っているケースを探してみた。
 たいていの先進国では、手近にある蛇口をひねれば飲料水が水道から出てくる。それなのになぜ、エヴィアン社のフランス産飲料水が数百万ドル分も市場で売れているのだろうか? それはつまり、我われが、水道水は信用できないのではないかというばかげた不安を抱いているからである。
 多くの人が五○ドル出してRed Hat Linuxの「オフィシャル」ボックスを買うのも、そっちのほうが無料でダウンロードできるものや、たったの二ドルで手にはいるCD−ROM版非公式コピーより信用できるからである。我われレッドハット・ソフトウェア社は、自社ブランドを売り込む市場を作るために、多くのLinuxユーザを獲得しなければならない。しかし、レッドハット・ソフトウェア社は、人類の大部分が飲む水を売る商売をしているエヴィアン社のように恵まれたビジネス環境にはいない。それはどう克服すべきなのだろうか?
 この課題を克服するには、市場占有率だけでなく市場の規模に注目する必要がある。ミネラルウォーターの全体需要が増えれば、消費者の多くが最初にエヴィアン社以外から飲料水を購入しても、やがてエヴィアン社も利益を得ることができる。それと同様に、ソフトウェア業界の多くの企業がLinuxを販売して、そのよさを広めてくれれば、レッドハット・ソフトウェア社もそこから利益を得ることができる。Linuxユーザの全体数が増えれば、Red Hat Linuxを好いてくれる潜在ユーザの数もそれだけ増加するのである。
 ブランドは、技術力を売りものにするビジネスでは大きな力となりうる。その証拠に、いくつかのベンチャーキャピタルが、最近になってオープンソースソフトウェア関連のビジネスに投資している。いままでのところ、そのような投資対象のすべてに共通する特徴は、企業もしくはその製品の知名度が高いことと、製品の質の高さが認知されていることである。要するに、ブランドの確立に成功した企業である。


レッドハット・ソフトウェア社のビジネスモデルの魅力
 結局のところ、ブランド管理に力を入れるということは、商品を市場の適切なセグメントに対して提供することにつながる。新しいOSを市場に導入して、ある程度のシェアを獲得しようとするときも、市場のどの部分をターゲットにするかが重要である。現在のOS市場をにぎわせ、支配しているのは、マーケティングに優れた企業が出している商品だけである。競争力のある製品を市場の適切なセグメントに対して出すことは、競争に勝つうえできわめて重要な課題である。
 現在のところ、OS市場で最大のシェアを有する企業に対する不満の最たるものは、その企業が業界に及ぼしている絶大な影響力である。新しいOSは、単なる別の商用ソフトウェアであってはならない。今の消費者の不満の的になっている市場への影響力を別の所有権者に与えるものであってはならない。新しいOSは、ユーザにOSの支配権を付与するものでなければならない。Linuxは、この条件をひとりでに、また最大限に果たしている。
 実際のところ、LinuxはひとつのOS以上のものである。Linuxは、オープンソースのソフトウェアの集合体を表わす言葉になっている。それは、「自動車」という言葉が、一つの業界をうまく言い表わしているのと似ている。我われは自動車を運転しているのではなく、フォード社の組み立てたトーラスや、ホンダ社の組み立てたアコードを運転している。同じ比喩で言えば、レッドハット・ソフトウェア社は、フリーソフトウェアオペレーティングシステム業界のOS組立工場である。レッドハット・ソフトウェア社は、顧客が、OSを買うとかLinuxを買うとかいう意識ではなく、何よりもまずレッドハットを買うという意識を持ってくれるようになったとき、本当に繁盛しビジネス的に成功する。
 ホンダは、ミシュラン社からタイヤを調達している。TRW社からエアバッグを、デュポン社から塗料を調達している。そして、それらの部品を組み立ててアコードを製造し、証明書や保証書をつけて販売している。ホンダ系列や独立系の修理工場のネットワークを提供している。
 レッドハット・ソフトウェア社は、シグナスソリューションズ社からコンパイラを調達している。Apacheからウェブサーバを、Xコンソーシアム(DEC、HP、IBM、サンなどが協賛する共同企業体)からXウィンドウシステムを調達している。そして、それらを組み立ててRed Hat Linuxを製造し、証明書や保証書をつけて販売している。
 自動車会社と同様、レッドハット・ソフトウェア社の仕事は、オープンソースソフトウェアを、最高のOSを作るための最適の部品として調達することである。しかし、OSに対する支配権を握っているのは、レッドハット・ソフトウェア社でなく、そのOSをレッドハット・ソフトウェア社から購入したユーザ本人である。だから、レッドハット・ソフトウェア社の顧客は、我われが選んだsendmailではなくqmailなどのソリューションを使いたいと思えば、そうすることができる。これは、フォード社のトーラスを買った人が、標準装備のマニホールドをもっと高性能のものに取りかえようと思えばそうできるのと同じである。トーラスのオーナーは、自分の車に対する支配権を持っているから、その車のボンネットを開けることができる。Red Hat Linuxのユーザは、自分でソースコードにアクセスし、自分で変更を加えることができる契約条件のもとにRed Hat Linuxをライセンスされている。したがって、自分で使用しているLinuxに対する支配権を持っているのである。
 独占者のルールに従ってまともに勝負しても、独占企業に対抗することはできない。独占企業には金があり人がいる。配給ルートがあり、研究開発力がある。要するに、あらゆるパワーを持っているのである。独占者とやりあうには、勝負のルールをこちらの具合のいいように変えなければならない。
 十九世紀末のアメリカでは、オペレーティングシステムではなく鉄道が独占状態にあった。主要都市間の輸送業務は、大手鉄道会社がほとんど独占していた。実際のところ、シカゴを始めとするアメリカの主要都市は、鉄道会社が所有するターミナル駅を中心に発展したのである。
 そのような独占企業の優位は、新しい鉄道が敷設されたり運賃が値下げされたりしても変わらなかった。彼らの優位がくつがえされたのは、インターステート高速自動車道路網が整備されたことで、トラック輸送会社が提供する宅配業務のサービスが、鉄道会社が提供する駅から駅への限定的な輸送業務より人気を博したからである。
 現在、商用OSに対する知的所有権を持っている企業は、鉄道会社が自社の鉄道網を技術的に操作するようなことをそのOSに対してできる。つまり、商用OSのAPI(Application Program Interface)は、鉄道の路線網や時刻表のようにすべての諸権利が所有者に帰属している。その知的所有権の保持者が思いどおりの使用料を請求できるようになっている。彼らはまた、OSとAPIの関係を、自分たち以外のアプリケーション開発企業の意見をまったく無視する形で、自分たちの好きなように変更することもできる。OS上で動作するアプリケーションプログラムの開発には、そのOSについての情報が不可欠だが、商用OSの知的所有権を持っている企業の強味は、そのOSのソースコードへのアクセスを握っていることである。
 ISVは、OSを提供する側にOSを支配されている状況から脱却したいと思っている。彼らが求めているのは、ベンダーによって支配されてなく、かつ、ベンダーによってメンテナンスされるだけのOSである。ISVは、そういうOSを手に入れることで、OSの知的所有権者が、アプリケーションプログラムの開発において、自分たちの最大の脅威ならないことを確信できる。今、ソフトウェア業界では、こういったOSを求める気運がどんどん広まりつつある。たとえば、コーレル社は、まさに商用OSの束縛から自由になりたいがために、同社のワープロソフトワードパーフェクトをLinux上に移植した。オラクル社がデータベースソフトウェアを移植したり、IBM社がウェブサーバソフトのApacheを正式にサポートすることにした理由もまったく同じである。
 オープンソースのOSには、商用OSと比較した場合、ユーザが自分の好きなように自由に使用できるという利点がある。商用OSのベンダーは、自社OSを販売して多大な利益を上げている。また、自社製品を構成する商用ソフトウェアに莫大な投資をしている。我われもLinuxで利益を上げているが、それは、商用OSの売上と比べればほんのわずかである。したがって、商用OSのベンダーが我われのささやかなビジネスへの対抗手段として、我われと同じサービスを提供するようなことは、彼らの気が触れない限りありえない。
 もちろん、我われのビジネスモデルを受け入れるユーザが十分な数に達すれば、既存の商用OSベンダーもなんとかして対抗せざるを得ないだろう。しかし、そういうことは実際に起こるとしても、まだ何年か先のことだと思う。商用OSベンダーが、我われへの対抗手段として、ネットスケープ社がナビゲータのコードを「公開した」ようなことをすれば、よりよいソフトウェアが非常な低コストで開発できるようになる。我われの努力がそのような結果に結びつけば、それはソフトウェア業界全体にとっても喜ばしいことである。もちろん、レッドハット・ソフトウェア社は、さらなる目標をめざして前進していく。
 ここで、フェルミ研究所であった出来事を例に、ユーザが自由にソースコードを使用できるLinuxの利点を考えてみよう。フェルミ研究所は、シカゴ郊外にある大型粒子加速器研究所である。そこでは、高度な専門知識を有する千人あまりの物理学者が研究員として働いている。加速器の性能をアップさせようとしているフェルミ研究所は、進行中のプロジェクトの要求に合わせてカスタマイズできる最新のオペレーティングシステムを必要としている。研究所は、加速器の性能をアップさせて、これまでの十倍近いデータを解析できるようにしなければならないが、研究所の予算では、必要な資源を既存のスーパーコンピュータ納入業者から得ることができない。しかし、ソースコードを自由にできるLinuxを使えば、クラスタ方式を用いることによって、超並列スーパーコンピュータを構成することができる。フェルミ研究所は、その機能が必要だった。
 あれやこれやの理由から、フェルミ研究所はオープンソースのOSを利用せざるを得なくなった。そして、Red Hat LinuxがオープンソースのOSとして好評を博していることを知って、我われに電話してきた。実際のところ、彼らは、プロジェクトのOS選びをしていた四か月の間に六回も電話してきたが、我われは一度も問い合わせに応じなかった。それにもかかわらず、彼らは、Red Hat LinuxをオフィシャルなOSとして導入することに決定した。この場合の教訓は次のとおりである。我われは、もっと丁寧な電話の応対のしかたを身につけなければならない(すでに身につけた)。フェルミ研究所は、レッドハット・ソフトウェア社からサポートを受けようが受けまいが、自分たちで購入したRed Hat Linuxを自由に使えることを納得したということである。
 このように、Linuxは、フェルミ研究所のような大規模ユーザにとっても、ISVのようなソフトウェア開発企業にとっても利益をもたらすのである。しかも、商用OSにみられるような使用上の制限をまったく持たない自由なOSである。そして、レッドハット・ソフトウェア社が、数あるLinux販売業者に伍して成功しているのは、ブランド管理とマーケティングを徹底して行なっているからである。


オープンソース、フリーソフトウェア、およびライセンス形態について
 Linuxの一番の利点は、オープンソースにある。つまり、Linuxは、信頼性や使いやすさ、システムの堅牢さ、または、ツールの多さに着目されて支持されているわけではない。Linuxが支持されている理由は、ソースコードレベルでオープンであることと、そのソースコードを、我われベンダーの承諾を求めることなく、自由に、自分の好きな目的のために使用できることである。
 「ソースコードのないソフトウェアはソフトウェアではない。」 これは、宇宙空間に人間を送り出すのが商売のNASAで言われていることだが、NASAのエンジニアにしてみれば、バイナリベースの商用ソフトウェアの信頼性が高くても、それだけではソフトウェアとして不充分なのである。そのソフトウェアの信頼性が「きわめて高く」てもまだ不充分である。NASAは「完璧な信頼性」を求めている。自分たちのコンピュータシステムを頼りに、十二人の宇宙飛行士を時速千マイルで地球の周回軌道に打ち上げ、彼らの生命を維持するNASAにとって、ソフトウェアの欠陥で「死を意味する青いスクリーン」が画面上に表示されることは、万が一にもあってはならないことなのである。
 そのためにNASAは、自分たちのコンピュータシステムを構築するソフトウェアのソースコードを自由に入手できなければならない。また、そのソースコードは、必要に応じて自分たちで自由に修正できるものでなければならない。確かに、歯科医院の料金精算システムは、NASAの宇宙飛行士が依存するほどの高い信頼性を必要としない。しかし、原則は同じである。
 また、商用OSと違って、Linuxの場合、ユーザは、自分で構築するアプリケーションの必要性に合わせてOSの仕様を変更できる。これは、レッドハット・ソフトウェア社独特の付加価値であり、我が社よりもはるかに大規模な会社も実行しようとしない、あるいは実行できない提案なのである。
 これは、従来の知的所有権の概念をくつがえす価値の提案である。レッドハット・ソフトウェア社は、ライセンス条項で顧客の使用に制限を加えたり、ソースコードから遠ざけたりするのではない。レッドハット・ソフトウェア社は、顧客がソースコードを自由に入手でき使用できるようにライセンス条項を利用したい。この価値の提案という目的に合ったライセンスとはどのようなものだろうか? この問に対して、オープンソースコミュニティは様々な答を出すことができる。また、実際にそうしている。ちなみに、レッドハット・ソフトウェア社は、今のところ次のように考えている。

FSFのGNU一般公有使用許諾(GNU General Public License又はGNU GPL)のライセンス形態は、オープンソースの精神に基づいている。なぜなら、GPLのおかげで、GPLされているOSに加えられた修正点や改良点もGPLとして公開されるからである。GPLが、共同開発プロジェクトの管理に絶大な効果を発揮しているからである。

 我われが「効果的」という言葉を定義したのは、UNIXがまだ開発されている時代のことだった。一九八四年まで、AT&T社は、UNIXのソースコードを、改良に一役かってくれそうなグループと共有していた。しかし、解体後のAT&T社は、単に電話会社であるにとどまらず、UNIXのライセンスを売る商売にも乗り出した。その結果、かつてUNIX開発に協力した大学や研究グループは、自分たちが協力して作ったOSにライセンス料を支払わなければならなくなった。彼らは不満だったが、どうすることもできなかった−なんといっても、UNIXの著作権はAT&T社のものだった。AT&T社以外の開発グループは、AT&T社の配慮によって協力させてもらっていたのである。
 我われは、Linuxで同じことを繰り返したくない。だからこそ、我われは、ライバル企業が我われの技術を基に何か新しいものを作った場合には、少なくともそれを共有できるようにしたいのである。この強制的協力関係を保証するのにもっとも効果的なのがGPLである。GPLは、競合企業間において強制的な協力関係を維持させるのにもっとも効果的なライセンス形態なのである。
 Linuxは高度にモジュラー化されている。そのため、Red Hat Linuxは、四百三十五ものソフトウェアを含んでいる。したがって、ライセンスの問題は非常に現実的である。出荷は許可するが、書き換えは許可しないというライセンスでは、ユーザが必要に応じてソフトウェアを書き換えたり修正したりすることができない。原著者の許可があれば書き換えられるというようなライセンスでも、制約が多すぎる。書き換えのために四百三十五もの原著者や開発チームに許可を求めさせるのは、あまりにも非現実的である。
 我われはライセンスについて観念的になっているわけではなく、ユーザに使用の自由を与えるライセンスでありさえすれば、なんでもいいと思っている。そのようなライセンスであれば、我われは、顧客やユーザに対して−それがNASAのエンジニアであろうと、歯科医院の料金請求システムを開発するプログラマであろうと−使用の自由を提供できるからである。


オープンソースソフトウェアの開発を支える経済的要因
 Linuxの出所をめぐる様々な逸話は、このOSの開発が強力な経済モデルによって推進されている事実を物語っている。
 オープンソースのコミュニティに対しては、おたくタイプのハッカーの集団という紋切り型のイメージが広められている。Linuxにしても、十四歳のハッカー連中が寝室で作ったたこというような根も葉もない話があたかも事実であるかのように語られていた。これは、商用OSのベンダーがひそかに広めているFUDの一例である(不安(Fear)、不確実性(Uncertainty)、疑い(Doubt))。もしそれを事実と信じてしまえば、誰だって、自分の大事な仕事に使うアプリケーションを、十四歳の子供が暇つぶしに書いたソフトウェアにゆだねようとは思わない。オープンソースのコミュニティは、まず、こういった誤解を払拭しなければならなかった。
 そして、Linuxは、そういった偽りのイメージとはまったく違う形で開発されたのである。もちろん、「一匹狼的なハッカー」も、開発の過程で重要な役割を果たした。しかし、Linuxのソースコードの大部分は、ハッカーの手になるものではない。Linuxは、主開発者のリーナス・トーバルズが学生時代に始めた開発が原点となっている。そして、Linuxに含まれるソフトウェアの多くは、大手のソフトウェアメーカーや研究所に所属するプロのソフトウェア開発者によって書かれたのである。
 たとえば、LinuxにはGNU CやC++コンパイラが含まれているが、これらはカリフォルニア州サニーベイルにあるシグナスソリューションズ社から提供されている。XウィンドウシステムはもともとXコンソーシアム(IBM、HP、DEC、サンが協賛する共同企業体)の提供していたソフトウェアである。Linuxに含まれているイーサネットドライバは、主にNASAのエンジニアによって書かれたものである。最近では、デバイスドライバも、その開発を専門とするメーカーによって作られていることが多い。要するに、オープンソースソフトウェアは、商用ソフトウェアと大差ない環境で開発されている。そして、オープンソースは、商用ソフトウェアとほぼ同じで開発者コミュニティによって支えられているのである。
 グラント・ガンサーは、かつてエンプレスソフトウェア社のデータベース開発チームに所属していたとき、同僚たちの在宅勤務を可能にしたいと考えていた。そのためには、大容量のデータをオフィスと自宅の間で安全にやりとりできる手段が必要だった。彼らにはLinuxとZIPがあったが、当時(一九九六年)のLinux用のZIPドライバはできがよくなかった。
 ガンサーのとるべき道は、Linuxをやめて高価な商用OSを購入するか、二日がかりでまともなZIPドライバをLinux用に書くかの二つに一つだった。結局、彼はドライバを書いた。ガンサーのドライバは、インターネットを介して協力してくれたZIPユーザたちによって、テストされ改良された。
 ガンサーのZIPドライバは、仮に開発を正式に依頼していたら、エンプレスソフトウェア社とガンサーに対して数万ドルを払わなければ作ってもらえない代物である。しかしガンサーは、自分の作った製品を「無料で提供する」道を選んでいる。そうすることによって、彼は、お金を受け取る代わりに、Linuxと一緒にZIPが使えるというソリューションを手にすることができた。別の方法で実現させようとしたら要するであろう費用の数分の一のコストで、自分の同僚たちの在宅勤務を実現させることができた。このように、オープンソースの開発方式は、誰もが得するソリューションをもたらすことができるのである。


ユニークな利点
 ソフトウェアの機能と利点は混同されやすい。オープンソース方式で開発されているソフトウェア、とりわけLinuxには、確かに独自の機能があり、そのような機能があるからこそLinuxはこんなに引っ張りだこなのだと、ついつい言いたくなってしまうほどである。ところが私は、まともな会社の情報システム部長(MIS)から、「OSのソースコードをほしがる人がいるのはなぜですか」と質問されてきた。要するに、ソースコードをほしがる人間などいない、と彼らは言いたいのである。フリーソフトウェアのライセンスなど誰も必要としていない、必要とされているのはOSの機能だけだ、と言いたいのである。しかし、機能はかならずしも利点ではない。我われは、機能がもたらす利点について考えなければならない。
 コンピュータコミュニティを失望させているのは、きわめて専門的な市場においてさえ、最高の技術がめったに成功しないことである。つまり、どんなに技術的に優秀であっても、利益があがるわけではない。Linuxは、他のOSに比べて必要なメモリが少なくてすむ。他のOSよりも安く手にはいる。他のOSよりも信頼性が高い。これらによってLinuxは、ウィンドウズNTやOS/2よりも技術的に優れたOSとなっているが、それらは優れた機能であっても、Linuxに成功をもらす要因ではない。
 Linuxを最終的に成功に導いたり失敗に導いたりする要因は、普通、「マーケットポジショニング」というテーマでくくられる。それはソフトウェアの機能とはまったく別の次元にある。我われは最近、ロータス社の上級エグゼクティブから、「世間の人たちはどうして別のOSを必要としているのですか」と質問されたが、Linuxは、「単なる別のOS」にすぎないのだろうか? それとも、OSの新しい開発スタイルや配布スタイルを象徴しているのだろうか? 「単なる別のOS」でなければLinuxは成功する。
 上記の問に対する我われの答は次のようなものである。Linuxの開発を含むオープンソース運動は、我われのコンピュータ環境を今後とも大いに進化させるソフトウェア開発における革命でなのである。
 オープンソースは一つの機能である。ユーザが自分のソフトウェアを自由に支配できることは、ソースコードがオープンであるゆえの利点である。すべてのソフトウェアメーカーは、ソフトウェアに対する支配権を必要としている。そして、オープンソースは、今のところ、それを可能にするために業界が見出した最善の方法なのである。


UNIXの大きな弱点
 私の知る限り、多くの人びとは、様々なバージョンが出現してUNIXコミュニティが分断されてしまったのと同じ運命をLinuxが辿ると確信している。Linuxが従来のOSとは根本的に異なることを例証するためには、LinuxがUNIXと同じ運命を辿るかを考察するのが一番である。現在、UNIXには、三十種類ほどの−その大部分が互換性を持たない−バージョンが存在している。
 初めに指摘しておくが、UNIXをばらばらにした力は、Linuxをひとつにまとめる力として働いている。
 LinuxとUNIXとの大きな違いは、カーネルでもなく、Apacheサーバでもない。これら以外のいかなる機能でもない。LinuxとUNIXの大きな違いは、Linuxがオープンソースであるのに対し、UNIXが知的所有権に基づいて販売されているクローズドな商用OSであるという点である。商用OSのメーカーは、短期間に利益を上げることばかり考えて、自分のところの顧客に対してだけしか、自社製OSに加えた新機能を提供しない。UNIXは、このような機能がベンダーごと追加されてしまった結果、いくつもの非互換なバージョンに分断されてしまった。こうしたことが起こるのは、ベンダーが自分たちのソースコードを独り占めして、他のベンダーに使用させないからである。UNIXはライセンス形態がクローズドで、UNIXコミュニティの誰もが新機能を使いたいと思っても、それを使えるのは、その新機能を追加したベンダーだけなのである。
 Linuxの状況は、まったく逆である。Linuxでは、あるベンダーの追加した機能が市場で好評を博せば、他のベンダーがそれをすばやく取り入れる。これは、他のベンダーがその機能のソースコードを使用できるからである。Linuxは、それを可能とするライセンスのもとに提供されている。
 一九九七年、Linuxコミュニティでは、従来のlibcライブラリと新しいglibcライブラリをめぐる論争があった。この論争は、多くの技術的な理由から新型のglibcライブラリを採用したレッドハット・ソフトウェア社と、従来のlibcライブラリをそのまま使用していたベンダーとの間で六か月にわたって吹き荒れた。そして、アンチLinux派は、これによりLinuxが衰退すると予言していた。しかし、実は、この論争こそオープンソースであるLinuxの利点を示す例に他ならない。というのも、どのベンダーも一九九八年の終わりごろまでには、レッドハット・ソフトウェア社のglibcライブラリのほうがより革新的で堅牢、安全、高性能であると判断して、とっととそちらへ切り替えてしまうか、近い将来の切り替えを予告してしまったからである。
 こんなふうにオープンソースは、何かを統一する圧力を生み出すことができる。共通の価値基準、要するにオープンな基準を満たすことができる、それを疎外する知的所有権の障壁を排除することができる。これこそオープンソースの力なのである。


選択の自由
 革命的な新方式が登場するとかならず、そんなものは失敗するにきまっていると言う懐疑論者がいる。新方式が成功例として認められるために克服すべきありとあらゆる障害を指摘する人たちがいる。新方式を完璧に実行してこそ成功なのだと主張する空論家もいる。そして、それ以外の人たちは、こつこつ新方式をテストし、導入し、それが従来の方式よりもうまく機能する用途を見つけだそうとする。
 革命的な新方式がもたらした利益の最たるものは、PCである。一九八一年にIBMが自社のPCの仕様を発表したとき、世界中の人びとはなぜ、あれほど夢中になってパソコンを導入したのだろうか。それは、IBMのPCが技術的に特に優秀であったからではない。最初に出荷されたPCに搭載されていたCPUは、8086だった。メインメモリは(たったの)六四キロバイトしか実装されていなかった。ユーザが個人用のコンピュータを使うのに六四○キロバイト以上のメモリが必要になるなど、誰にも想像できなかったので、最大限でも六四○キロバイトのメモリしか使えなかった。データのバックアップは、テープレコーダーでとるようになっていた。
 PCの出現によって、ユーザは自分のコンピュータ環境を自分の手でいろいろできるようになった。その点においてPCは革新的だった。PCが出現したことによって、ユーザは、一台目のコンピュータをIBMから、二台目をコンパックから、三台目をHPから買うというような選択肢を持てるようになった。数あるメーカーの一つからメモリやハードドライブを買うことができるようになった。目的やアプリケーションにあった周辺機器を、ほとんど無限の選択肢から選ぶことができるようになった。
 PCの登場が、多くの技術的矛盾や非互換性、そして混乱を生み出したことは事実である。しかし、いまや周知のとおり、消費者は選択の自由を好むのである。消費者は、多少の混乱や矛盾をがまんしてでも、選択の自由−選択権と支配権−を獲得したいのである。
 もう一つ注目したいのは、PCのハードウェアビジネスが細分化しなかったことである。ハードウェアの仕様は公開されているのが普通であり、操作の共通性を維持するための基準にどうしても従わざるを得ない状況がある。知的所有権をたてにユーザをしばりつけようとするハードウェアメーカーはいまだ存在しない。つまり、PCのハードウェアでは、コミュニティ全体が技術革新の恩恵に浴している。
 Linuxは、オペレーティングシステムのレベルで、消費者に選択の自由を与えるものである。Linuxによって選択の自由を経験したユーザが、商用OSのメーカーを再び信用するようなことはもうないだろう。
 ユーザは、まったく新しい形の責任と専門知識を持ってLinuxを使うようになる。
 これからも批評家たちは、Linuxテクノロジーの重大な問題点を探し続けるだろう。しかし、消費者は選択の自由を求めている。そして、オープンソースソフトウェアの開発市場は、インターネットを基盤としながら、批評家たちが折に触れて発見する問題の解決方法を見つけていくことだろう。