プロフィール
Translation by Akira Kurahone



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d ブライアン・ベーレンドルフ(Brian Behlendorf)
 普通の人が考えも及ばない真のプログラマで、Apacheグループの共同設立者であると同時にコアメンバーの一人である。Apacheはソースが公開されたウェブサーバ用ソフトウェアで、インターネット上で一般にアクセスできるウェブサーバの%で利用されている。つまり、このフリーソフトウェアは、マイクロソフトとネットスケープと他の企業の販売総数を合わせたウェブサーバ市場の半分以上を獲得していることを意味している。
 四年間、Apacheプロジェクトに携わっており、Apacheチームの他のメンバーとともに、膨れ上がって行くプロジェクトの統率を担っている。このプロジェクトでは初めは面白い実験でしかなかったものが、現在では、見事に完成し、あらゆる機能をサポートしたウェブサーバになった。
 今回の執筆陣の中で音楽に身を捧げているのは彼だけではないが、レイブパーティを主催したりDJをこなす、おそらく唯一の人間だろう。個人的に運営しているウェブサイト(http://hypereal.org)には、素晴らしい音楽、レイブパーティ、クラブの情報が満載されている。読書を好み、最近ではコンピュータ分野以外でも、カプラの『Tao of Physics』やチョモスキーの『Secrets, Lies and Democracy』などを愛読している。
 一九九八年の後半に、IBM社が同社のハイエンド機AS/400機種でApacheをサポートすると発表したが、これがまさにApacheプロジェクトの分水嶺だった。このIBMの動きに対して、彼は次のように述べている。「ビジネスチャンスがあると考えていたのが自分一人ではなかったので幸せでした。単に仕事が楽しかっただけでなく、ビジネスのひとつのモデルでもあったのです。集まってきた人々は、オープンソースがコンピュータで何かを行なう最も優れた方法であることを実際に目の当たりにし、健全で利潤の多いものである点を理解したのです。」



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d スコット・ブラドナー(Scott Bradner)
 ARPAnetの初期の頃からハーバード大学でデータネットワークの設計/運営とデータ利用に携わり、HSDN(Harvard High-Speed Data Network)、LMAnet(Longwood Medical Area network)、NEARNETの設計にも関与してきた。また、LMAnet、NEARNET、CoRENの技術委員会の設立議長も勤めてきた。
 IETFのトランスポート部門のコーディネータで、IESGのメンバーでもあり、インターネット・ソサエティの理事として選ばれ、標準化委員会の副委員長も勤めている。IETFの次世代IPのコーディネータでもあり、アディソン・ウェスレイ社(現ピアソン・エデュケーション)から出版されている『IPng: Internet Protocol Next Generation』の共編者でもある。
 HSDNの主任技術コンサルタントを勤め、ハーバードのデータネットワークや新しい技術に関連した問題点に対して、技術的なアドバイスや指導を与えている。またHarvard Network Device Test Labも統率しており、技術会議で講演することも多く、毎週、『Network World』に記事を書き、インターロップのインストラクタとしても活躍している。副業として個人でコンサルティングも行なっている。



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d ジム・ハマーリィ(Jim Hamerly)
 ネットスケープ・コミュニケーション社のクライアント製品部門の副社長。一九九七年六月に、デジタルスタイル社を買収した際の代表取締役兼CEOであり、同社の共同設立者であった。
 デジタルスタイル社を設立する前は、ページズ・ソフトウェア社の副社長であり、エンジニアでもあった。デスクトップパブリッシング用ツールであるPagesと、最初のWYSIWYG形式のウェブオーサリングツールであるWebPagesの開発を統括していた。
 ゼロックス社では、様々なR&Dや製品開発活動に十五年を費やし、つい最近まで、ゼロックス社のソフトウェア部門であるXSoft社の主任エンジニア代理で、四つのソフトウェア製品ラインの責任者でもあった。
 MIT、カリフォルニア大学バークレイ校、カーネギーメロン大学の電子エンジニアリングおよび計算機科学の学士号、修士号、博士号を持つ。



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d カーク・マクージック(Kirk McKusick)
 書籍や雑誌の記事を執筆したり、コンサルティングを行なったり、UNIXやBSDに関連したクラスで教えてもいる。カリフォルニア大学バークレイ校に在学中、BSDのファスト・ファイルシステムを実装し、BSDとBSDの開発とリリースを監督したCSRG(Berkeley Computer Systems Research Group)のコンピュータ科学研究者である。専門分野は仮想メモリとファイルシステムで、これらをいつかシームレスに統合したいと考えている。
 コーネル大学で電気エンジニアリングの学士号を取得し、カリフォルニア大学バークレー校で卒業論文を提出し、バークレー校で計算機科学の修士号と博士号、経営学の修士号(MBA)を取得した。USENIXアソシエーションの会長を勤めた経験もあり、現在はACMとIEEEのメンバーとなっている。
 余暇には水泳やスキューバダイビングを楽しみ、熱心にワインを収集している。コレクションのワインは、自宅の地下に組み立てた専用のワインセラー(http://www.mckusick.com/~mckusick/index.htmlというウェブサイトで見ることができる)に保存されており、エリック・アルマンとの共同生活は十九年余りになる。



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d ティム・オライリー(Tim O'Reilly)
 米国オライリー社の設立者でありCEOである。同社は、Perl、Linux、Apache、それにインターネットのインフラに関連したオープンソースに深く関わる技術書を出版する会社として有名である。一九九八年には、主要なオープンソース・コミュニティのリーダーを一堂に集めた最初の「オープンソース・サミット」を主催し、著作物や講演、カンファレンスを通して、オープンソース運動を活発に促進している。
 インターネット・ソサエティの理事でもある。



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d トム・パキン(Tom Paquin)
 最初、IBMの研究所で並列プロセッサに関連したプロジェクトに参加したが、当時の新しいPC用に(AMD29116をベースにした)ビットマップグラフィック・アクセラレータを開発したところでプロジェクトが終わった。その後、MITおよびブラウン大学でX6とX9に携わった後、カーネギーメロン大学で最初の商用版Xを生み出す一部を担った。
 一九八九年五月にシリコングラフィックス社(SGI)に入社したが、不幸にもGLとXの統合化というお鉢が回された。一九四四年四月にネットスケープ社のジム・クラークおよびマーク・アンダーセンとともに、Mozillaの最初のエンジニアリングマネージャとして、リリースとまでチームを統率した。現在はネットスケープフェローであり、管理者、問題仲裁人、不思議な政治的リーダーとして、mozilla.orgで仕事をしている。



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d ブルース・ペレンス(Bruce Perens)
 長い間、Linuxとオープンソースソフトウェアを主唱しており、一九九七年まで、すべてオープンソースソフトウェアを基にしたLinux配布キットを作成するボランティア活動のデビアンプロジェクトのリーダーを務めていた。
 デビアンプロジェクトに関わっていた際に、デビアン配布キットに含まれたソフトウェアが自由にライセンスされたものと十分に見なせる条件を述べた、『デビアン社会契約』の作成に携わった。これは、今日の「オープンソースの定義」の直系の祖先である。
 デビアンの世話係という職から退いた後、Software in the Public Interestを設立した。また、エリック・レイモンドとともにオープンソース・イニシアティブを設立して、オープンソースの普及に努力を続けている。
 オープンソース運動の啓蒙活動の合間をみて、ピクサー・アニメーション・スタジオで働いている。



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d エリック・スティーブン・レイモンド(Eric Steven Raymond)
 一九七〇年代後半のARPAnetの日々以来、驚きと魅力に駆られながらインターネットと真のプログラマ文化を観察し、また実際に参加してきた長年のプログラマ。三か国で生活したことがあり、十四歳になるとその内の二つの言葉は忘れてしまったそうだ。この経験で、自分の世界を見る人類学的な手法が培われたと考えるのを好んでいる。
 コンピュータに魅了される前は数学と哲学を勉強しており、音楽家としてもいくらか成功を収めて楽しんでいた(フルート演奏のアルバムが二枚ある)。手がけたオープンソースプロジェクトのいくつかは、すべての主要な
Linux配布キットに収録されている。おそらく最もよく知られているのがfetchmailだが、GNU Emacsとncursesにも広く貢献しており、現在、非常に重要なのにあまり感謝されることのないtermcapの保守管理を行なっている。テコンドーの有段者でもあり、息き抜きに射撃もする。古典的な一九一一年式四十五口径のセミオートマ チックが愛用のピストルである。
 執筆した著作物として、『The New Hackers Dictionary』(『ハッカーズ大辞典』福崎俊博訳、アスキー刊)の執筆兼編集と、オライリー社から出版されている共著の『Learning GNU Emacs』がある。一九九七年には『伽藍とバザール』という題の随筆をウェブに掲載し、先駆的なネットスケープ社のブラウザのソースコードを公開させたキー・カタリストと謳われている。
 それ以降は、オープンソース運動の波を巧みにサーフィンしてきた。最近では、Linuxを分析したマイクロソフトの社内文書をすっぱ抜き、業界に衝撃を与えた。このいわゆるハロウィーン文書(最初に公表された十月三十一日にちなむ)は、ユーモアの源であると同時に、巨大企業がオープンソース化現象を認識していたことを最初に周知させたものである。



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d リチャード・ストールマン(Richard Stallman)
 本書の寄稿者の誰もが、いろいろな点でリチャード・ストールマン(RMS)の恩恵を受けている。十五年前、フリーソフトウェアの開発を保護/育成するために、GNUプロジェクトを開始した。プロジェクトの明文化された目標は、ソフトウェアに対して、誰もが二度とお金を払わなくて済むよう、オペレーティングシステム全体を作成し、フリーでオープンな使用許諾書のもとで利用可能なユーティリティ一式を作成することにあった。
 一九九一年、Emacsエディタの開発に対して、計算機械協会(Association for Computing Machinery)から名誉あるグレース・ホッパー賞を受賞し、一九九〇年にはマッカーサー財団のフェローシップも得ている。また、一九九六年にはスウェーデンの王立科学技術大学から名誉博士号を受賞し、一九九八年には、エレクトロニック・フロンティア財団のパイオニア賞をLinuxのトーバルズと共同受賞している。
 作成を手伝ったコードよりも、フリーソフトウェアの啓蒙思想(エバンジェリズム)が広く知られている。
 すっかり自己の主張に身を捧げているかのように、自分が参加しているコミュニティの論争を扇動してきた。「オープンソースソフトウェア」という言葉は、とくにフリーソフトウェアの自由化に関連する側面を放棄するものだと主張しているが、これは最近までずっと取り続けてきた多くの姿勢のひとつに過ぎず、そのために極端論者というレッテルを貼られる原因となった。しかし、彼を変革の自我をまとった君主、そうEmacs教会の聖GNUティウスだとする人の誰もが証言するように、すべてを順調にこなしてきている。
「リチャード・ストールマンがいなかったら、まず先に、彼を発明する必要があっただろう」と多くの人々が述べている。この賛辞は、オープンソース運動は、今日でも伝道し普及に努めているフリーソフトウェアという動きがなければ起こり得なかったという事実を真摯に認めたものである。
 この政治的姿勢に加え、数多くのソフトウェアプロジェクトでも知られており、最も卓越したプロジェクトがGNU Cコンパイラ(GCC)とEmacsエディタの二つである。GCCはほとんどのプラットフォームに移植されており、世界で最も有名なコンパイラでもある。また、彼はEmacsエディタでいたるところで有名だが、Emacsをエディタと呼ぶことは、大きな土の塊を地球と呼ぶようなものである。Emacsはエディタであると同時に、ウェブブラウザ、ニュースリーダ、メールリーダ、個人情報の管理ツール、組版プログラム、プログラミング用エディタ、進エディタ、ワープロ、数多くのビデオゲームでもある。Emacsのアイコンをあらゆるものに使っているプログラマも多く、Emacsを一度起動したら、コンピュータで何か行なうのにEmacsから抜け出さないプログラマも大勢いる。Emacsは単なるプログラムではなく、もはや宗教であり、その聖者がリチャード・ストールマンである。



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d マイケル・ティーマン(Michael Tiemann)
 シグナスソリューションズ社の設立者。GNU CコンパイラをSPARCや他のRISCアーキテクチャにも数多く移植し、GNU C++コンパイラ(彼が作成した)、GDBデバッガをC++プログラミング言語をサポートするよう拡張し、SPARCで動作するよう移植したことで、ソフトウェア開発コミュニティにあまたの貢献を行なった。
 この新しいオープンソースソフトウェアを商用的にサポートするビジネスを既存の企業に売り込めず、一九八九年にシグナスソリューションズ社を共同で設立した。オープンソースソフトウェアとオープンソースのビジネスモデルの講演やパネリストとして演壇に上がることも多く、これまでの十年間がそうであったように、これからの十年間も興奮してやり甲斐のある技術的およびビジネス的な解法を常に探し続けている。
 一九八六年にペンシルバニア大学のムーア工学校から計算機科学部のエンジニアリングの理学士の学位を取得している。一九八六年から一九八八年まで、テキサス州オースティンにあるMCCに勤め、一九八八年にはスタンフォード大学院(電子工学科)に入学し、一九八九年の春に博士論文提出志願者になった。ただし、その秋、シグナス社を始めるにあたって、博士号の申請を取り下げた。



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d リーナス・トーバルズ(Linus Torvalds)
 リーナス・トーバルズとは誰か? もちろん、Linuxを生み出した人間だが、これは「マウスを開発したのがエンゲルバートだ」と言うようなものだ。彼の人となりは、次の電子メールがよく物語っていると思う。



 とても、いまの彼を想像できない…
 小さな趣味だった自分のプロジェクトが七百万から一千万もの支持者を持ち、世界で最大のソフトウェア企業の野望に大きく匹敵する主要なOSになろうとは彼自身にも予見できなかった。
 Linuxが広く一般に受け入れられ、インターネットを通して
Linuxの燎原の火が大きくなるにしたがって麻Cンターネット上に設置されたサーバの%はLinuxが稼動している(一番近い競合相手がマイクロソフト社で%を占める)又゙の生活も変わった。生まれ故郷のフィンランドからシリコンバレーに移り住み、現在、トランスメタ社に勤務している。トランスメタ社ではLinuxには関わっていないが、非常に「クール」な仕事に携わっているとだけ語っている。
 二人の子供と特許(マイクロプロセッサのメモリコントローラで、アドレス付けされているコンポーネントの物理的性質が原因と思われる故障の検出を行なう)を一つ持っており、フィンランドで最も名誉ある祭典である、大統領の独立記念式に招待されたこともある。
 実際に自分の作ったものでないものを自分のものだと言える性格ではなく、他の人々の助けがなければ今日のLinuxはあり得なかったと、躊躇なく述べる人間である。事実、デビッド・ミラーやアラン・コックス、それに他にも優秀なプログラムの多くが、Linuxの成功を助ける役割を果たした。彼らだけでなく他の無数の人々の助けがなければ、Linuxは現在のそびえ立つ地位へはたどり着けなかっただろう。



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d ポール・ヴィクシー(Paul Vixie)
 ヴィクシー・エンタープライゼス社の統率者で、BIND、INN、DHCPサーバの発祥地であるインターネット・ソフトウェア・コンソーシアムの会長であると同時に設立者でもある。DNSの最も有名な実装であるBINDの主任設計者である。また、INNはインターネットネームサーバのパッケージで、DHCPはネットワーク情報を動的に設定するためのものである。
 さらに、LinuxのデフォルトのcronデーモンであるVixie cronの作者である。つまりは、毎晩、午前一時にコンピュータが不可思議な音を立てるのは、おそらく彼のせいだということだ。
 また『Sendmail: Theory and Practice』の筆者であり、Commercial Internet Exchangeのためのネットワーク管理も行ない、リアルタイムのブラックホール・リスト(全能のゴミ箱行きになったスパムメールを送ってくれた人を登録)と自律転送型セキュリティで構成されたMAPS(Mail Abuse Protection System)を用いて、スパムメールとの戦いの指揮を取っている。


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d ラリー・ウォール(Larry Wall)
 ニュースリーダのrnや随所で利用されているpatchプログラム、またPerlプログラミング言語を含め、UNIXで利用可能な有名ないくつかのオープンソースプログラムの開発者。Configureスクリプトを書き出すmetaconfigプログラムや、宇宙戦争ゲームのwarpの作者としても知られており、このゲームの最初のバージョンは、シアトル・パシフィック大学のときにBASIC/PLUSで書かれたものである。カリフォルニア大学バークレー校とUCLAの両方を、実際には言語学の大学院生として徘徊していた(奇妙な話しだが、バークレー校に在学中、そこで行なわれていたUNIXの開発にはまったく関係していなかった)。
 プログラマとしてJPLに勤務していたこともあるが、その後、ユニシスでも働き、離散事象シミュレータからソフトウェア開発の方法論にいたるまで、あらゆる作業に携わっていた。Netnewsの速成版を使って、千二百ボーの暗号化された回線を介し、大西洋の両岸に設置された管理システム同士を結び付けようとしていたときに、Perlが生み出されたという逸話がある。
 現在、オライリー社に所属しており、Perlに関連したコンサルタントを行なっている。

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d ボブ・ヤング(Bob Young)
 オープンソースコミュニティの中で、いつも不可解であると同時に、伝説的な人物である。プログラマではなくビジネスマンで、Linuxのサークルではレッドハット社のノースカロライナの子供たちを統制し続けた、神話的な大人として語られてきている。
 専門職の最初の二十年間をコンピュータのリースビジネスで過ごしている。Linuxの世界に踏み込む前は、二つの独立した会社を切り盛りしていた。フィル・ヒュージェスとSSCが買収する前の『Linux Journal』の発行人だったが、その後、マーク・アーウィングの部下は会社の金銭面の管理を一切心配する必要はないという約束のもとにレッドハット社に加わった。一般にGAPやハーレーダビットソンに連想されるような、ブランドイメージをフリーソフトウェアの世界に適用した。これはまさしく、商品(日用品)の本質であり、オープンソースソフトウェアをパッケージ化している企業に必要なことであった。
 元々、レッドハット社は、商用のOS企業に供給するOEM版Linuxを作成することを考えており、直接市場に販売したり小売することは考えていなかった。そういった商用のパートナーたちが、期日に自社の製品を市場に出せなかった場合に限り、Red Hat Linuxを独自ブランドの配布キットで小売したのである。このようにして、レッドハット社の社員は食べて行くのに十分な給与が保証された(いまでもそうだが)。
 最近、同社はベンチャー投資家やネットスケープ社やインテル社から支援を得ているが、レッドハット社が自社製品を出すつもりはなかっただけに、この成功はうれしい誤算といえる。

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d 倉骨 彰(くらほね あきら)
ak-books@opentech.co.jp
テキサス大学オースチン校大学院博士課程修了。数理言語学博士。自動翻訳システムのR&Dを専門とする。ワイドナー・コミュニュケーションズ社(ユタ州プロボ市)などを皮切りに複数の自動翻訳システム開発プロジェクトに携る。現在、(株)オープンテクノロジーズ勤務。翻訳書を中心として執筆活動も多彩。

主な訳書: