第6章 歯科診療のプロセスと注意義務
1 歯科診療のプロセス
歯科診療のプロセスも、他領域の医療の場合と同様の経過を辿る。
すなわち、患者が病院ないし診療所を訪れて診療を申し込んだ患者について、これを歯科医師が診察室に招き入れ、患者の愁訴(例えば「右下の一番奥の歯が痛い」等)を聞いて(問診)、必要な検査(例えば患部のレントゲン撮影等)を経て診断を下し、病状を患者に説明した上(例えば「かなり進行した虫歯である」等)、必要とされる治療方法(例えば「抜歯は不要であるが削ってクラウンを被せることが必要である」等)を説明して患者の承諾を得て治療(例えば「歯冠補綴修復処置」)を加えるが、中には術後管理上の注意義務が問題となりうるケースも存在する。
そこで、以下では右のような歯科診療のプロセスに即して、判例上問題となった歯科医師の注意義務の内容について検討をおこなう。
2 病状診断上の注意義務
(1) 判例【11】及び判例【1】
右プロセスの最初に位置するのが問診をはじめとした病状診断に関する注意義務である。
歯科診療につき誤診の有無が問題となった事案としては、上述したエナメル上皮腫に関する誤診についての判例【11】以外にも、判例【1】がある。
同判例では、他院での治療により既に咬合状態が改善され正常であったにもかかわらず、歯科医師がこれを異常であると誤診して不当な咬合調整をしたと主張したが、裁判所は右誤診の主張を認めなかった。
(2) 判例【15】
【15】東京地判平成2年2月9日判時1369号115頁は、原告(患者)が、A歯科医院で抜歯を受けた部位に痛み等が出現したので、B歯科に受診し「抜歯窩治癒不全」の診断を受けるとともに、抜歯窩がドライソケットの状態であったため掻爬を受け、同歯科で専門的な口腔外科への受診を勧められたので、次いで被告病院口腔外科に受診し同抜歯窩の再掻爬及び再々掻爬を受けて「抜歯窩治癒不全」と診断され入通院治療を受けたが、その後も微熱及び右下顎の鈍痛があったので、C病院を受診したところ、右下顎の皮質骨から骨髄に至る硬化部分の切除手術及び「右側下顎骨慢性硬化性骨髄炎」の診断を受けるに至り、さらに右手術後に一旦消失した疼痛及び微熱が再発したので、別の複数の病院に受診し「右側下顎骨慢性硬化性骨髄炎」等と診断されたという事案である。
原告は、被告病院受診時に既に罹患していた急性骨髄炎の定型的症状の看過もしくは検査の懈怠により被告病院の担当歯科医師がこれに気付かず誤診した結果として、急性骨髄炎が二次性慢性骨髄炎に転化したと主張したが、裁判所は、被告病院での診療中に急性骨髄炎に罹患していた事実は認められないとして右誤診の主張を認めなかった<注23>。
3 患者の承諾と歯科医師の説明義務
(1) 歯科領域の特殊性
(a) 患者の承諾と医師の説明義務という概念
次に、歯科医師は、診断した病状を患者に説明した上、必要とされる治療方法を説明して患者の承諾を得て治療を加えることになるが、その際に問題となるのは、患者の承諾と歯科医師の説明義務である。
すなわち、一般の医療過誤事件においては、医的侵襲行為が違法性を阻却されるためには、当該医的侵襲行為が医学的適応性等の要件を有しているだけでは足りず、患者は自己の生命・身体の維持・保全につき自己決定権を有するので、患者が治療の意味をよく理解した上で、これを承諾することが必要であり、右承諾なくしてなされた医的侵襲は違法であると解されている。また、一般に医学的知識を有しない患者が有効な承諾をするためには、実施しようとする医療行為につき、あらかじめ医師側から十分な情報が与えられなければならないので、患者の承諾を得るための前提として、医師の説明義務という概念が認められている<注24>。
以上の議論は、歯科領域においても原則として妥当するが、歯科領域における紛争の中では、説明・承諾の有無について争点となった事案が最も多く、しかも、一般医療の場合と比較して以下に述べるとおり特殊性を有しているように思われる<注25>。
(b) 緊急性及び復元・再生の困難性について
まず、一般に、手術等の緊急性が認められる場合もしくは治療行為が生命・身体に対して与える影響が小さい場合には、説明義務の範囲及び程度は免除ないし軽減されると解されている。
このような観点から考えると、歯科診療については、ともかくも生命を救うべき場合その他の緊急性がある場合は比較的稀であるから、説明や承諾を得るための時間的余裕がないケースは少ない。
また、抜歯、歯の切除など、復元・再生が困難であるか不可能な治療内容が多いという特色を指摘することもできる。
したがって、これらの点で、患者に対する説明義務及び患者の承諾を得るべき義務が認められる範囲が広い。
(c) 治療方法に関する選択範囲の広狭について
次に、歯科診療においては、適応可能な治療方法や使用する材料・材質が多種に及ぶ場合が少なくないので、一般の医療行為に比して、治療方法に関する選択の範囲が広いという特色がある。
例えば、歯冠補綴修復ひとつを取り上げても、材料による区分につき、金属冠(金合金、金銀パラジウム合金、銀合金など)、ポーセレン冠(陶材)、レジン冠(プラスチック)があり、また、作成方法についても、全部金属鋳造冠(すべて金属で鋳造するもの)、前装冠(金属冠の表面に陶材を焼き付けたメタルボンド冠やレジンを装着したレジン前装冠)、ジャケット冠(すべてポーセレンもしくはレジンだけで作られているもの)といった種類が適応可能とされている。
(d) 審美性について
しかも、歯科診療では、その対象となる部位からして外貌への影響が大きいので、審美性という患者の主観的願望を満足させる度合いが少なくなく、この点で美容整形とも類似している<注26>。
例えば、臼歯を修復する場合でも、審美性を優先して天然歯に近い質感及び色調を持ったポーセレン冠を用いるか、機能性を優先して対合歯に負担をかけない金合金の冠を使用するかは、まさに患者の価値観によるところであるから、歯科医師の裁量に委ねられるべき問題ではなく、患者の自己決定権が重視されることにならざるを得ない。
これらの点で、判例【12】が、「歯科診療がその対象としている部位が外貌に影響を与えるものであること及び他の医療分野と異なり治療方法の選択につき患者が意見を述べ自己決定する度合いが高いことから考えて、診療を行う歯科医師としては・・・右治療の結果が患者の外貌に及ぼす影響についても充分に説明をし、その意思を確認して治療にあたるべき注意義務を負う場合のあることは否定できない」としていることは、その限度では正当である。
(e) 自由診療について
さらに、歯科診療では、健康保険診療を使用せず患者の自費による自由診療が選択されるケースが多く、その場合、健康保険診療と比較して患者が経済的に負担すべき治療費額に多大の差異が生じる。
この点でも、健康保険診療が通常とされる一般の医療領域における説明義務との間に大きな差異が生じている。
例えば、臼歯修復の場合に、健康保険診療の対象となり得る金銀パラジウム合金を用いるか、自由診療となるポーセレン冠などを使用するかにより、患者の経済的負担には少なからぬ相違が生じるからである。
もっとも、患者側が事前に健康保険診療を希望していた場合、治療方法に関する選択の範囲が限定されることになるので、その結果として説明義務の範囲を限定する要素となり得る。
(f) 小 括
以上の諸点からすれば、歯科医師が患者に説明すべき具体的な範囲は、患者の病状、これに対し適応可能な治療方法の概要だけでなく、それに用いられる材質や材料が多種に及ぶ場合については、その方法や材料、それぞれに関する外貌への影響を含めた効果、治療に伴う副作用や危険性などについても説明を要し、さらに、治療の種類如何や健康保険診療か自由診療かにより治療費が著しく異なったり高額となるケースでは、費用も含めた説明が必要となるものと解される<注27>。なお、先端治療であるインプラント(人工歯根技術)について、説明義務が問題となった判例があるが、この点については後述する。
(2) 治療方法の選択に関し説明・承諾が問題となった判例
(a) 判例【12】
先に説明した判例【12】の事案は、患者が上顎切歯4本に「四分の三冠」の治療を受けた結果、上顎切歯4本のそれぞれの隣接面に金属が露出して5本の筋が入り外貌が醜くなったが、右治療に先立ち歯科医師から不正確な説明を受けたので誤って治療につき承諾を与えてしまった等と主張して損害賠償請求訴訟を提起したというものである。
もっとも、本判例は、前述のような一般論を述べた後、「しかし、一般的には、歯科医師としては、患者の身体的・生理的条件に従って病巣に対する客観的に処置をすれば足りるものであって、患者から格別の申し出があるとか、職業、性別、年齢等患者特有の事情に鑑み明らかに美容上の効果を重視すべきことが予想される場合であるとか等特段の事由がない限り、逐一個々の患者の審美眼がどのようなものであるかを確認しそれに沿った治療をなすべきで注意義務まで負うものではない」として、患者側の請求を退けている。
本判例は、歯科医師側が、不十分な説明ながら、見た目には1本ずつ筋が入って見える旨の説明を事前に加えていること、右患者が健康保険による診療を希望していたこと、右患者は51歳になる機械製造加工業の工員の男性であること等の事実認定に立脚しており、その意味で判例の結論自体は肯定できる余地もないわけではない。
美容整形の場合には、より美しくなりたいという患者の主観的願望を満足させる目的でおこなわれる点で、他の医療行為と比較して治療の医学的必要性及び緊急性が乏しいという特色を有するので、説明義務の範囲ないし程度は加重されるべき傾向にある。
これと比較すると<注28>、歯科診療の場合には、原則として医学的必要性が存在しており、この意味で本来の治療目的の達成が重視されざるを得ないという点、通常は患者は治療目的で受診しているので、必ずしも審美性を重視するとは限らない点等において差異があるが、前述のとおり、一般の医療領域と比較して種々の意味で患者の価値観に委ねざるを得ない領域が存在しているという歯科診療の特色からすれば、右の「しかし」以下の説示部分については、注意義務を負うべき範囲に関する一般論としては狭きに失するものと思われる。
(b) 判例【16】
次に、【16】浦和地判昭和56年7月22日判タ451号119頁も、歯科診療における治療方法の選択に関する多様性との関係で、患者の承諾及び歯科医師の説明義務が問題となった判例である。
事案は、歯科医師が抜歯後の欠損部分に義歯を入れる際に、ブリッジではなく「挿し歯」<注29>を入れたことにつき、歯科医師が治療方法の説明を怠り患者の希望にそわない治療をした等と主張して、患者側が損害賠償請求訴訟を提起したというものである。
本判例は、「患者が歯科医師に対し・・・義歯を入れることを頼んだ場合、その義歯が挿し歯であるかブリッジであるかは重大な関心事であり、その後の管理の点からすればブリッジにしたいとの希望があることは当然考えられることであるから、ブリッジにすべき両側の支台歯の状態がブリッジによるに耐えない状態である場合その点を患者に説明し、ブリッジによることはできない旨述べ、それに代わる次善の方法として、挿し歯の方法があること、そのためとるべき治療の概要などを説明した後に治療を開始すべき業務上の注意義務がある」と判示しており、この点については異論がないものと思われる。
もっとも、本判例も、「しかし、右注意義務は、患者の言語態度からみて、明らかにブリッジによる義歯を望んでいないことが認められる場合には免除され、歯科医師がその点の説明をしないで、直ちに挿し歯の方法による治療を始めたとしても、その注意義務違反に問われることはない」とした上、治療に先立ち患者が健康保険で入れられる安い義歯を入れて欲しいと述べ、敢えてブリッジを入れてくれとは言わなかったこと等からすれば、原告が「もともとブリッジにすることを期待していないことが言語態度により明らかであった」などとして、右歯科医師の責任を否定している。
本判例は、そもそも医学的にみてブリッジが不可能であった事案ではあるが、本判例の結論に対しては、原告が当初は誤解して「健康保険ではブリッジを入れることはできないと考えて」前記のとおり述べていたことからすれば、説明不足を感じさせるという批判があてはまろう<注30>。
(3) 治療に伴う健全歯の削り取りに関し説明・承諾が問題となった判例
(a) はじめに
歯科領域では、治療に伴う咬合関係回復等を目的とする健全歯等の削り取りが避けられない場合があるが、患者の承諾なくして削り取りがなされたとして紛争になることが少なくない。
このような類型の判例としては、判例【1】があり、患者が事前に承諾していたという事実を認定することによって歯科医師の責任を否定している。
なお、【17】大阪高判昭和57年10月21日判タ485号161頁では、歯科医師が、承諾なしに臼歯の根管を拡大し、その上部を削る等をおこなったという患者の主張に対する判断遺脱の存在を理由とする再審の訴えにつき、原判決では患者の承諾を得て治療に至っており右治療についても過誤はないとしているので、原判決に判断遺脱はないとして、右訴えを却下している。
(b) 黙示の承諾
さらに、【18】大阪地判昭和61年2月24日判タ616号132頁では、患者の黙示の承諾が認定されている。
同判例は、作成したジャケットクラウンを試験的に患者に装着して咬合状態を調べ患者にも具合を聞いたところ、患者が「当たる」と言うので、数回ジャケットクラウンを抜いて裏側の箇所を削ったが、なお患者が「当たる」と言うので、これ以上削ればジャケットクラウンが破損するおそれがある等の事情から、さらに調整するためには対合歯削合による他ないと考え、この旨を患者に告げたところ、患者が口を開けていたので承諾したものと考えてエナメル質を少し削ったことに対し、右患者が、承諾なしに健全歯を削られ、また本件対合歯削合は歯科医学上認められない違法な治療方法であると主張したという事案である。
本判例は、対合歯削合を告げられた際、少なくとも右患者が言葉や動作により反対する意思を示さなかったのであるから黙示の承諾を与えているし、本件の経緯に鑑みれば対合歯削合による咬合調整は医学上やむを得ない処置として一般的に認められるとして、請求を棄却した。
(c) 個別的承諾の要否
判例【16】は、治療行為に伴う軽微な健全歯削合につき患者の個別的承諾を不要とした。
本判例では、患者の承諾を得ることなく「欠損歯のところに挿し歯を入れる治療行為として、挿し歯の両端のバネを両側の歯に乗せその沈下を防ぐためレスト(出っぱり)部分が高くならないようにする目的で両側の琺瑯質の一部を僅かに削った」という点が問題となったが、「正当な治療行為に包含される健全歯の削り取りもまた正当な治療行為として是認されるから、事前に患者である原告の承諾を求めなかったとしても何ら過失があるとはいえ」ず、その承諾は患者が歯科医師に対し義歯治療に必要な行為をすることを頼んだ包括的な意思表示中に当然包含されているから、さらに個別的に承諾を要しないとした。
本判例のように、裁判所は通常の治療範囲内で必要な健全歯切削につき患者の個別的承諾をさほど厳密には要求していない傾向にあると評されており<注31>、学説上でも、個々の治療行為全部について逐一個別的承諾を得る必要があるとすると診療が円滑に進行しなくなる危険があることを理由に、軽微な診療においては診療申込等の包括的承諾で足り個別的承諾を要しないと解されているが、包括的承諾の適用範囲を広く認めると、患者の自己決定権を無意味にする危険があるという指摘もなされている<注32>。
4 治療行為自体に関する注意義務
(1) 治療行為に関し、歯科医師の注意義務違反の有無が争点となった事案には、以上のように説明・承諾に関連する紛争や、後述のような麻酔事故の事案が多いが、このような治療行為自体に関する判例として、ブリッジに関する作成・装着及び装着後の改善措置についての注意義務を説いた判例【10】、やはりブリッジに関する支台処置上の債務不履行責任を認めた判例【8】、抜歯の誤吸引時の処置に関する注意義務を説いた判例【7】については既に説明を加えた。
(2) 以上の他にも、歯髄失活剤を除去しようとしたが口を開けようとしない幼児の頬を強打した歯科医師を傷害罪で有罪とした刑事判例である【19】大阪高判昭和52年12月23日判時897号124頁、単純ミスの事案として、中切歯の根管の内部を削って拡大する際、誤って根管中間の壁面に穴をあけ、その後これにメタルボンドの金属ポストを充填したため右ポストが外れて歯茎に突き刺さったとして歯科医師の過誤を認めた判例【5】がある。
(3) 判例【6】は、2時間を要する下顎埋伏智歯(親不知)の難抜歯手術によって発生した下顎骨の骨折等につき、歯科医師が無理に抜歯しようとして右骨折等を生ぜしめるほど強く打撃を加えるという拙劣な手術をおこなった旨を患者が主張した事案で、後述のとおり術後の患者の愁訴放置に関する責任は認めたが、手術方法自体に関する過失については、「抜歯等の手術の際、下顎骨が骨折することは・・・全く稀有な事例ではなく、埋伏智歯の状況、患者の口腔内の状況、年令等の条件により、通常の術式を採用してもなお下顎骨にヒビが入ることは避けられない場合があると認められる」として否定した。
しかし、このような症例の場合、本件のように骨ノミを使用して槌打すると骨体骨折が発生するおそれがあるので、安全のためタービン・バーを使用して歯牙分割して抜去すべきであると指摘されており<注33>、判例が認定した事実によれば、骨ノミを用いたことが認められるだけで、被告が主張したタービン・バーを用いた旨の主張は認められていないのであるから、右判旨には賛成できない。
なお、この判例の別の判示部分で「被告の過失ある行為により原告の下顎骨が骨折し、また歯槽骨骨片が残存し」たと述べていることは、前記のとおり手術方法に関する過失を否定していることと矛盾する旨の指摘もなされている<注34>。
(4) 判例【18】は、ジャケットクラウン装着時の咬合状態調整を目的とする対合歯削合につき、前述のとおり承諾なしに健全歯を削られたとする患者の主張に対し患者の黙示の承諾を認定したものであるが、さらに、患者が本件対合歯削合は歯科医学上認められない違法な治療方法であると主張したことに対し、対合歯削合による咬合調整は他に方法がなくやむを得ない場合にとられるべき手法であるとした上、その要件として、・・・
<1> ジャケットクラウン作成に瑕疵がなく、
<2> 装着後の咬合調整はまずジャケットクラウン削合によりおこない、
<3> しかもなお不十分でやむを得ない場合に、
・・・自然歯である対合歯の削合処置がとられるべきであるとしている<注35>。
(5) 他の診療科との共働にまつわる問題
なお、【20】横浜地判平成元年3月24日判タ707号216頁では、他の診療科との共働にまつわる注意義務が問題となった。
事案は、SLE(原因不明の慢性全身性炎症性結合織病<膠原病>で全身性自己免疫疾患のひとつ)に罹患してY病院にてステロイド剤投与治療を受けていた患者が、左上顎第二小臼歯の歯痛を訴えたため、同病院の歯科医師の歯根膜炎との診断に依拠して、同病院の担当内科医師がその抜歯を許したところ、SLEの悪化等を原因として肺うっ血水腫により患者が死亡したとして、患者の遺族がY病院に対し使用者責任に基づく損害賠償請求訴訟を提起したというものである。
本件では前記抜歯措置に関する過失の有無が争点の一つとなったが、本判例は、SLE患者においては、ステロイド療法の結果、感染に対する抵抗力が弱まり、そのために菌血症から敗血症に進展し重篤化する危険があり、特に口腔内には種々の細菌が間断なく存在するので、抜歯はなるべく避けるべきであるとしつつ、その反面、歯痛によるSLE患者の精神的苦痛、食欲減退、そのための体力低下がSLEの悪化原因ともなることを理由に、「抜歯をするか否かは、担当医師が抜歯の危険性と抜歯による有利な点とを比較検討し、患者の全身及び歯の局所の状態に基づき決定されるべきである」としたうえ、前記担当内科医師が、歯痛の原因が歯根膜炎であり、口腔内にカンジダ菌が認められ、さらに炎症悪化の虞れがあったこと、前記患者の抜歯前のSLEの状態は安定していたこと、前記患者が強く抜歯を希望したことから、前記歯科医師と協議のうえ抜歯したのであって、その判断が適正ではなかったとは認められない等と判示して、Y病院の責任を否定した。
5 高度先進医療における注意義務−インプラントを中心として
(1) インプラントにまつわる紛争
近時は、インプラント(人工歯根技術)をはじめとして、歯科診療の領域においても、高度先進医療における注意義務が問題とされるケースが増加している。
インプラントは、施設及び技術が一定水準にある病院において実施された場合に限って有用性が承認される「高度先進医療」として位置付けられており、大学病院等が申請をして承認を得た場合に限定して一部が健康保険診療の対象となる。
ところが、一方で大学病院等が臨床例を蓄積し続けているのと平行して、他方で、一般の歯科医院でも施術するケースが増加しており、それに比例して最近は紛争も増え訴訟に発展するケースも増えている<注36>。
(2) 判例【9】
(a) このような判例の一つである判例【9】は、上顎に装着したブレード・ベント・インプラント(刃状の人工歯根様のものを顎の骨に埋め込む方式の義歯)が動揺したので撤去して骨膜下インプラント(顎骨の形状に合わせて作成したインプラントフレームを顎骨上に密着固定して人工歯根とする方式の義歯)を施術したところ、同インプラントが感染源となり上顎骨骨炎に罹患したという事案である。
事実関係の詳細は次のとおりである。
すなわち、開業歯科医師である被告は、昭和57年頃、抜歯によって無歯顎となった原告(患者)の上顎全体に骨内インプラントの一種であるブレード・ベント・インプラントを装着した。ところが、原告の上顎の骨吸収が進行して右インプラントが動揺するに至ったので、これを撤去して上顎に骨膜下インプラントを施術することを勧め、上顎に関する右施術は無理ではないか危惧した原告の質問を取り上げることなく、昭和61年1月22日に前記撤去をおこない、同月29日に骨面印象(歯肉を切開しておこなう顎骨の型取り)をした後、同年2月4日に右施術をしたが、右インプラントも依然として動揺する等の問題を感じた原告が他院で診察を受けたところ、同インプラントが感染源となって上顎骨骨炎に罹患しているという事実が判明し、同インプラントの除去と歯茎の炎症部分の切除手術を受けた。
(b) 以上のような事実認定に立脚して、本判例は、ブレード・ベント・インプラント除去後は原告の上顎顎骨全顎にわたり急速な骨吸収が起こるのであるから、「少なくとも六か月以上顎骨の安定を待って骨面印象を行う等、顎骨とインプラントフレームとが確実に密着する状態が期待し得る適切な時期に骨膜下インプラントに移行するよう、慎重な配慮をすべき注意義務があった」が、「被告が本件で行った骨膜下インプラントの施術は、原告からの前記危惧の念を抑えたうえで性急にこれを実施したとのそしりを免れず、その時期、方法、並びに結果に照らし、被告には、臨床歯科医師としての右の注意義務を尽くさなかった過失がある」と判示して、前記注意義務に違反した歯科医師の責任を認めた。
(c) もっとも、本訴において原告は、まず、インプラントは未だ実験段階の域を出ない研究中の技術であり、これを実験台の如く安易に選択し施術した点に被告の過失があると主張している。
本件のような先進医療をめぐる医療過誤事件に関する従来の典型例は、前述の一連の未熟児網膜症訴訟等に示されているとおり、医師が先進医療を実施しなかったという不作為をもって患者側が過誤である旨を主張し、医師側が診療当時においては当該先進医療は医療水準に達していなかったとして、右作為義務を争うというケースが一般的であった。これに対し本件では、むしろ歯科医師が複数の治療方法のうち進んで先進医療を選択して施術したという作為が問題とされたという点に特色がある。
このように医師が進んで先進医療を選択したことの責任が争われた先例として、仙台高判昭和62年3月31日判時1234号82頁では、大学病院でのインシュリン・ブドウ糖負荷試験検査に関し、前記検査に伴う死亡等の結果回避義務違反は認められたが、前記検査は研究目的の人体実験であるとする原告の主張については排斥されている。
判例【9】も、インプラントが研究段階の未確立技術であることは認めつつも、インプラントという治療法自体がおよそ一般的に選択を許されないとはせず、その危険性等に鑑み、選択・実施には慎重な配慮を要するとして後述のとおりその要件を説示した。
このような先進医療選択に対する慎重性については、東京地判昭和57年7月28日判時1074号70頁の中においても示されているところである。事案は、川崎病の後遺症である冠動脈血栓症による死亡につき医師が冠動脈造影術を実施しなかったことが争点となったものであるが、裁判所は、当時は「最先端の技術として我が国に導入されて間もない頃であ」るとしたうえ「医師が・・・一定の診断方法を採るべきかどうかを決定するに当たっては・・・その診断方法が未だ一般化されておらず、しかも危険を伴うような場合・・・これを採用すべきかどうかの判断にはむしろ慎重さが要請されるといってよい(その診断方法を採ったことにより不幸な結果が生じた場合を考えてみるがよい。)」と判示している。
(d) ところで、本判決は、前記観点より、インプラントという治療方法の選択及び施術に関する要件として、次の三点を掲げている。
<1> 他の治療方法(有床総義歯)を検討し試みること、
<2> 患者に危険性を周知・理解させ十分に協議すること、
<3> 慎重に判断・実施すること、
以上の内の<2>の点は、通常は患者の同意とその前提となる医師の説明義務の問題として論じられてきた。
前述のように、歯科診療では、適応可能な治療方法や使用する材料・材質が多種に及ぶ場合が少なくないので、一般の医療行為に比して治療方法の選択が可能なケースが多いという特色があり、患者に対する説明義務及び患者の同意を取得すべき義務が認められる範囲は広く程度も重い。
本件では患者の同意は一応は取得済みとされているので、その前提となる歯科医師の説明義務の履行の有無が重視されるべきことになる。
しかし、本判決では、前述のとおり、「患者に対しインプラントの危険性について周知させ十分に協議」すべきであり、「特に骨膜下インプラント法は、・・・骨内インプラントに比較して複雑高度な技術が要求されること」や失敗の場合に骨に深刻な損傷を与えるという「危険性から、臨床医としては、まず有床総義歯による治療を試みるべきであり、患者に対し骨膜下・ンプラントの危険性についても理解させたうえで慎重にこれを行うのが望ましく、安易に骨膜下インプラントを施術すべきでない」と説示しつつ、ブレード・ベント・インプラント選択に際し、他に有床総義歯による方法があることは説明されているが、失敗例や失敗の可能性、将来発生すべき同インプラント動揺の可能性については説明がなされておらず、また、骨膜下インプラントに関しても、原告からの危惧の念を抑え性急に実施したとして、充分な説明がなされていなかったという事実が認定されている。
以上のような事実認定にも拘わらず、本判決では説明義務違反は認定されていない。それは、他に施術時期に関する過失の認定が比較的容易であったことに加え、弁論主義との関係で本件で原告が説明義務違反を明示的に主張しなかったこと等に起因するものと推測されるが、少なくとも先進医療分野に関する危険性については特に説明義務が加重されることが示唆されているものといえよう。
(3) 判例【21】
(a) インプラントにまつわるもう一つの判例として、【21】東京地判平成6年3月30日判時1523号106頁がある。本判例は、インプラント実施の結果、患者に上顎洞穿孔及び慢性化膿性歯槽骨炎を発生させた事案で、歯科医師の善管注意義務違反に基づく債務不履行責任を認めたものである。
本判例の事実認定に基づくと、経緯は次のとおりである。
すなわち、昭和57年に、被告(歯科医師)が、装着済みの患者(原告)の上顎のインプラントを中央の1、2本を残して全部抜歯し、右上顎4、5と6、7のあたりにバイオセラムのブレードインプラントを入れたところ、痛み等が発生して耳鼻咽喉科で治療を受けたが良くならないので、原告(患者)が東京医科歯科大学付属病院口腔外科で診療を受け、右上顎6、7につきインプラントが上顎洞に突き抜けている可能性が高いこと、痛みがあるのならば放置すべきでないことを指摘されたため、被告に前記診断結果を告げると、昭和58年4月ころ、被告は上顎洞炎症状の原因となっていた右上顎インプラントを除去し、同年9月ころ、上顎洞の閉鎖を兼ねて右上顎6、7に骨膜下インプラントの手術をし、さらに左上顎5、6にも骨膜下インプラント手術を行うとともに、右上顎の穴の閉鎖手術を行った。しかし、右閉鎖手術の抜糸後も、同インプラント埋込み部分の歯茎は完全には閉鎖せず、その後、歯茎の開いている部分の縫直し手術等を行ったものの、同部分の歯茎は完全に塞がらなかった。そのため、歯茎にはれものができたり、骨膜下インプラントのフレーム周囲に痛みや出血等の症状も出てきたため、昭和59年9月ころ、被告は骨膜下インプラントを抜去して上顎洞の閉鎖手術をし、その後も閉鎖手術を繰り返したが成功しなかったため、昭和62年1月にスウェーデン製インプラントの手術をしたところ、約1年半後には不具合を生じ、約2年後に慢性化膿性歯槽骨炎のため抜去される結果に終わったというものである。
(b) 本訴で原告は、昭和57年のインプラント除去につき何らの説明もなかった旨を主張した。
しかし、本判例は、「原告は上顎に残つていた歯の歯槽膿漏が悪化したため被告の診療を受けたものであるところ、歯槽膿漏の悪化に伴い隣接するインプラントに動揺が生じてくることは十分あり得ることと思われるし、何らの問題もないインプラントを除去することは通常考え難いから(右手術においても、装着されていた全てのインプラントが除去されたわけではなく、選択がなされている)、インプラントを除去するだけの治療上の必要性は存在したものと認めるのが相当である・・・。そして、特定部位のインプラントを除去し、そこに別のインプラントを埋め込む手術をすれば、施術を受ける原告には当然判ることであるから、全く説明なしに行うというのも通常ないことと考えられるうえ、原告の場合は、原・被告の供述によれば治療内容について積極的に意見・希望を述べていたことが明らかであって、なおさら全く説明なしに行うということは想定し難い。したがって、上顎のインプラントには全く異常を感じず、その除去について何らの説明もなかったとする原告の供述は、採用できず、前記被告の供述は信用できる。」として、「前記インプラント除去は原告に無断で行ったものであるとは認められ」ないと判示し、原告の前記主張を退けている。
さらに、右の点につき、は、患者がインプラントにつき多少の知識を有していても、所詮は素人であり新聞記事で得た程度の知識にすぎず、ましてインプラントのような先端医療につき患者が正確な知識を持つことは至難であり、むしろ過大な期待を抱きがちな傾向もあるから、専門家たる歯科医師としては、インプラントの限界・危険性につき十分に説明したうえで、患者の承諾を得る必要があるとして、より明快に説示していることが注目される。<注37>
6 麻酔の使用に関する注意義務
(1) 判例【22】
歯科診療の領域では、抜歯等の際に麻酔が使用されるので、麻酔を巡る事件も多い。
歯科麻酔学会事故対策委員会の調査により、昭和60年から平成2年までの5年間に麻酔ショックや歯科診療時の激痛が引き金となった心臓発作等による死亡者数は少なくとも22人に達するという事実が判明している<注38>。
判例上も、【22】浦和地判昭和60年9月30日判タ589号108頁では、抜歯の際の麻酔事故と問診を巡る紛争が問題とされた。
事案は、歯科医師が抜歯処置のため患者にキシロカイン2%の注射をしたところ、その直後に両手・両足の痺れを訴え、右半身知覚麻痺、右上下肢筋力低下の後遺障害が残ったというものである。
患者側は、歯科医師が十分な問診をしておらず、麻酔薬投与を差し控えるべきであったと主張したが、本判例は、以前にも右患者に麻酔薬の投与をしたが何ら異常がなかったこと、当日の来院当時も特に身体異常を示していなかったこと、本件麻酔前に「どうですか」と体調を尋ねたところ、「歯が少し痛い」と答えただけで他には胃炎気味であることと熱があるということを告げたにとどまり、右歯科医師は触診により高熱でないことを確認していることを理由として、右歯科医師には、更に問診をして、この患者の身体が麻酔薬投与を避けるべき状態にあるかどうかの判断資料を得る義務はなく、麻酔薬投与を差し控える義務もなかったとして、歯科医師の過失を否定した。
(2) 判例【13】
麻酔の使用に関し患者の承諾との関係が問題となった特殊なケースとして、判例【13】がある。
事案は、ある女性の患者が、開業歯科医師に対し、自分は重症の筋無力症に罹患しており以前に大学病院での治療の際に麻酔使用による筋力麻痺症状の経験があることを説明した上、麻酔抜きで治療をして欲しいと要望したが、この歯科医師は、キシロカインと笑気麻酔を使用して歯科治療を実施したので、この患者の重症筋無力症が増悪したとして、慰謝料の支払いを求めたというものである。
本判例は、歯科医師として前記要望に従い麻酔剤を使用しないか、仮に使用する必要があっても患者に及ぼす効果の安全性を十分確認し患者に説明をして準備措置を講ずる注意義務があるのに、これを怠ったとしてこの歯科医師の過失を認めている。
もし、右開業歯科医師において、患者の要望に従い麻酔剤を使用することなく治療をおこなうことが困難であったのであれば、全身管理が専門の歯科麻酔医師を擁する病院へ転送して治療をおこなわせるべきであったことになり、いずれにせよ、本件で過失を認めた判例の結論は是認できる<注39>。
(3) 判例【23】
なお、抜歯に伴う麻酔事故に関する紛争としては、刑事判例ではあるが、他に【23】東京地判昭和47年5月2日刑月4巻5号963頁がある。
本判例は、全身麻酔による抜歯等の手術の後に覚醒不十分のまま帰宅させた患者(5歳の幼児)が呼吸中枢の抑制気道閉塞による酸素欠亡により死亡したが、その間、2度にわたる患者の家族からの異常を訴えた電話連絡にも適切な対応をしなかったという事案につき、全身麻酔を選択した点については過失を認めなかったが、覚醒判断や帰宅後の経過観察等について歯科医師の過失を認め、業務上過失致死罪で有罪としている。
7 術後管理上の注意義務
抜歯や補綴等のひととおりの治療行為が実施された後も、なお歯科医師が注意義務を負担する場合がある。
抜歯等の術後、患者が痛みその他の愁訴を繰り返したが、歯科医師側が原因究明のための十分な対応を怠り放置したとして問題とされるようなケースがこれに該当する。
判例上も、当該抜歯等の処置自体には注意義務違反は認められないとしながらも、歯科医師がこれを放置したことを理由に術後管理上の責任が認められた事案が存在している。
例えば、判例【6】は、下顎埋伏智歯の抜歯手術後、患者が繰り返し痛みや不快感を訴えたが、担当歯科医師は投薬しただけで原因を詳しく調査せず放置したところ、約2ヶ月後の他院でのレントゲン撮影により下顎骨骨折等が判明したという事案で、歯科医師が抜歯後の患者の愁訴の原因を調査せず放置していたことにつき過失があるとして、請求の一部を認容した。
他にも、判例【10】では、前述のとおり、担当歯科医師にブリッジ装着後の患者の愁訴を放置して改善措置を講じなかったという過失が認められており、また、判例【22】は、全身麻酔後の覚醒判断や帰宅後の経過観察等について歯科医師の過失を認めているが、これらの判例は、認定された事実関係に照らし、概ね妥当であると考えられる。