第2章 歯科診療契約の法的性質
1 歯科診療契約の法的性質について
歯科診療についても、他領域の医療の場合と同様に、患者が病院や診療所を訪れて口頭その他の方法により窓口で診療を申し込み、これに受付が応じてカルテへの記載を開始した時点で歯科診療契約は成立したものと解されている<注3>。
もっとも、このようにして成立した歯科診療契約の法的性質については争いがある。
すなわち、一般の医療領域では、診療契約の性質を準委任契約(民法656条)であると解するのが通説的立場であり<注4>、判例の大勢も同様の立場を採用している。
これに対し、歯科診療契約の法的性質に関しては、特に補綴を中心として、義歯等については医療というより製作というべきであること等を理由に、これを請負契約であるとする有力な見解が存在する。
歯科診療過誤紛争に関する判例上においては、正面から論じたものは見受けられないが、やはり一般的には準委任契約と解することが当然の前提とされているように思われる。例えば、【1】東京地判平成6年7月22日判時1520号117頁では、原告は、請求原因において、義歯の製作及び装着を目的とした診療契約の法的性質を準委任契約であるとする立場に立脚することを明示しており、被告もこの点を特に争わず、裁判所も右立場を前提として判決を下している。
学説上においても、通説的見解は請負契約ではなく準委任契約であると解している<注5>。
その理由は、歯科診療も、補綴を含め、他の医療領域と同様に、患者の解剖学的・生理的・機能的状態等に依存するという特質を有していることからすると、歯科診療上の債務は、患者の治癒等という一定の結果を約束し達成すべき結果債務と解することはできず、適切とされる医療行為の実施自体を内容とする手段債務であると解さざるを得ないこと等である。
したがって、歯科医師は、歯科診療に関し患者に対する善管注意義務(民法644条)を負うことになるとともに、この意味で、診療契約の性質を準委任契約とすることを前提とした一般の医療領域における議論は、歯科診療についても基本的に妥当することになる。
2 歯科診療契約における委任の範囲
(1) ところで、判例の中には歯科診療契約によって患者が委任した診療ないし治療の範囲如何が争点となった事案が存在する。
例えば、判例【1】では、前述の事案において、患者である原告が、義歯の製作及び装着を目的とした診療契約の範囲には周囲の歯を削ることは含まれておらず、現に患者が拒否したにもかかわらず、歯科医師が誤った診断に基づき患者の同意を得ずに歯を削った等と主張して訴えを提起した事案につき、右治療内容である咬合調整のために歯を削る行為は治療行為としての相当性を有しているだけでなく、歯科医師が事前に歯を削る旨を説明し患者もこれを受け入れていたという事実を認定して、患者側の請求を退けている。
本判例のように、治療に伴い歯科医師が患者の承諾を得ることなく健全歯等を削合したとして紛争になった事案は他にも多く存在するが、これと並んで、後述のとおり、患者の意にそわない治療方法を選択したとして紛争になるケースも少なくない。
もっとも、これらのケースでは、むしろ実際には、患者が委任した契約の範囲如何というよりも、治療内容に関する歯科医師側の説明義務の履行ないし患者の承諾の要否や有無が実質的な争点とされている。
このような傾向は、本来、医療一般につき、受診当初は診療範囲が明確に定まっていないのが通常であり、診療継続段階になって初めて明確化する性質を有すると考えられていること<注6>の反映というべきであり、それにもかかわらず、歯科診療において、治療方法に関する歯科医師側からの事前の説明が十分でない場合が多いという実状が背景に存在することをうかがわせる。
この点に関連した医師の説明義務及び患者の承諾に関する判例の詳細は後述する。
(2) 他方、【2】名古屋地判昭和58年5月27日判タ507号282頁では、歯科医師の上顎癌治療契約の範囲には癌の肺転移に関する検査も含まれるか否かが問題となった。
事案は、国立大学附属病院口腔外科において上顎癌手術後約1年間の経過観察中に担当歯科医師が癌の肺転移発見のための胸部X線撮影を1度もおこなわず、その後、他院での検査により肺転移が発見され死亡するに至ったので、患者の相続人が担当歯科医師及び国を相手に訴えを提起したというものであるが、被告らは、同病院口腔外科は診療契約の内容として口腔部位の疾患の治療を受任したものにすぎず、自己の診療領域外の病疾発現につき検査すべき義務はないとして争った。
本判例は、肺は血行性転移の最も起こりやすい臓器であって胸部X線撮影による早期発見に努めるべきであり、癌の肺転移の有無を確認する注意義務は上顎癌治療の一環に含まれるとして、その懈怠につき責任を認める判断を下したが、同時に肺以外の臓器等に対する転移についてまで義務を拡張しているわけではない旨を判示している。
本判例では、「歯科医業」(歯科医師法17条)と「医業」(医師法17条)との区分という関係において、どの範囲までを歯科診療契約の対象とすべきかという問題が生じている。
この点につき、公法上の「歯科医業」の範囲は、当時において歯科医学上是認されている範囲であって、歯科医業固有の補綴・矯正等の技術的行為だけでなく、歯学の使命である咀嚼及び発音の機能確保等に必要である口腔部位の癌等に関する手術も含まれると解されており、歯科診療契約の範囲もこれと同様に考えてよいとした上、本件の如き癌治療を引き受けた以上は、癌に通常伴う転移の予防・検査の義務もその契約内容に当然に含まれるとして、学説も本判例の立場を支持している<注7>。
患者としても、少なくとも先端医療機関で一旦入院治療を受けるに至った以上は、事実上その診療科の方針に従い治療全体を委ねざるを得ない立場に置かれるのであるから、本判例は基本的には正当というべきである。診療科目の専門性との関係については歯科医師の過失を否定する根拠とはなり得ず、そのままでは治療継続が困難な場合は、後述の転送義務(転科義務を含む)の問題として処理すべきである。
(3) なお、【3】東京地判平成7年11月28日判タ918号205頁では、医師(耳鼻咽喉科)と歯科医師(口腔外科)の境界領域である上顎部分の手術(上顎埋伏智歯の処置と同時に行った術後性上顎嚢胞の摘出処置)を大学病院口腔外科の歯科医師が実施したという事案で、これを歯科医師が実施したことにつき問題はないとされている。